まず現代の新仮名遣いが旧仮名遣いと比較して口語に表面上 似せたという程度の不満足なものであり、考えなしに 作られたものであるという主張には全く異論なし。また、 そもそも観念を表現する手法として文字として書き表す手法と 口から音をだす手法が独立してあるのであるというのも 正しい。そして目からうろこが 落ちたのが「あ」という発音は「あ」と表記される必然性がある わけではないという指摘。文中の「い」が「ひ」と表記されるのは 不自然な仮名遣いだからではなく、まぎれもなく文頭の「い」と 違う発音だから「ひ」なのである、というのには非常な説得力がある。 昔は発声器の形から音の違いを考えたのではないかと思うけど、現在は 音声作成、認識の技術が進んで音の波形から全てを議論できるのだから、 口語を仮名遣いで表すべきだという考えが正しいならば極めて「正しい」 仮名遣いが作れるのではないだろうか。
ただ、作者が観念を言語から独立したものであるかのように扱っているのは 間違いだと思う。英語での思考、ラテン語での思考というのがあるのと 同様に口で話すような思考、文書に書くような思考(、絵を書くような思考、 楽器を弾くような思考・・・)がある。会話と文章は互いに翻訳可能では あっても、それはそれなりの修練と努力を要する作業であると思う。 もちろん新仮名遣いで口で話すように書けば他人に会話したかのように伝わると 言うのは間違いだけど、旧仮名遣いを習得すれば口で話すことを文字にかける わけでもない。この辺は文章表現とギャルげー表現、映像表現 etc の違いという たまに話題になることとも関わる。
このように書かれた内容にはおおむね賛成するが、この本は「正字正かなを使う意義」については 触れてない。そして、現在では新仮名遣いが完全に普及し、旧仮名遣いが 読めない人がほとんどである以上、正字正かなをあえてつかう必然性は 見いだせない。正字正かなの意義として、以下のようなものが すぐに思いつく。
ついでに言えば、新仮名遣いが音を移せば良いとされたことによって 国語の仮名教育はかなり適当になったのではないかと 思う。(子供を引き合いに出した教育論議はたいていは 教師が楽をするための方法論である)
まず、ある種の人々が「これはわたしの事だ」とか 思うたぐいの過去の痛手とか 感情的行動といったセンセーショナルな内容に比べて 書き口が淡白に過ぎて違和感を感じる。ナウシカと 比べて全く作中に作者の影がみえないのも 気持ち悪い。それに関連して、KANONの真琴シナリオを 「アルジャーノンじゃん」と評していたのを見かけたことがあるけど、 KANONだと執拗なまでの(泣き?)描写に作者の悪意と言うか強い意志 みたいのを感じた。アルジャーノンには善意というか、 悪い言い方をすれば宗教的なおためごかしみたいなものを感じる。
宗教的といえば、精神分析的というか サイエントロジー的というべきか、過去の記憶を 思いだし、掘り起こして解決することで完全人へ至ると いうような考えはアメリカでは一般的なんだろうか。 この話の中で愛という名のもとに恋、信仰、情と いったものの成長が混在して書かれ、チャーリイはその 果てに悟り(あるいは啓示)へ至り墜落する。 たとえば小松左京の「果てしなき流れの果てに」の ラストの絶望と希望、あるいはキェルケゴールの思索の末の 絶望と救いとしての信仰といった、僕が慣れ親しんだ 考えとはだいぶ違う。
この話にのめり込めなかった理由の一つは初めからオチを 知ってためではある。ちょうど真ん中、チャーリイが 自分の運命に気づくところからしばらくは筆の滑りが 異常にいいし、そこで乗り切れていればもっと 面白かったかもしれない。でも、善意の……あるいは 行動思考すべて理解可能な登場人物と読者にとって 了解できる内面をもった主人公の物語というのは どうにもこうにも虫が好かない。嫌いだ。
まず、最初の方では人間と敵対する自然をも愛するナウシカと それを征服しようとする人間の戦いが描かれる。それが、 いつのまにやら(自然を征服しようという技術を提供していた) 旧文明と現代人の戦いということになって、理想論的な 旧文明を滅ぼしてハッピーエンド。途中で「自然」の位置づけが 転倒してナウシカは人間側に立つようになるんだけど、 人間を滅ぼそうとしている自然というのを旧文明という 妙な形で代表させてしまったせいで、初めの対立は全く解消されない。 「私たちは滅びない」みたいなことをナウシカが言うんだけど、 菌類によって滅ぼされようとしている現実は人間の意思なぞと 関係なく進むはず。
それから、初めから設定はできていたんだろうとは思うけど、話が進むにつれて 登場人物の共有する世界が変容していくのが非常に気持ち悪い。 ナウシカの一人称で語られる世界の変容ならば不思議はないんだけど、 新しく読者の前に設定が明かされていくと同時に、その設定が 登場人物たちの常識と化してしまうので変な気がする。まるで 夢見る人の意思で変容する可塑的な夢の世界みたい。
あと、この人は愚民を導く指導者とかいうのを信じているんだろうか。 ナウシカがなんか唾みたいのに包まれて人々の集会の前に現れたときに それを求める大衆をみて、僧が「見せるんじゃなかった」という 場面があるんだけど、それをみてそう思った。逆なのかもしれないけど、 民衆と指導者(あるいは主要登場人物)を対立するものとして 捉えているのは確かだと思う。
目的の駅まであと、1時間弱はかかるはずだ。なぜ「あと」の後に読点が打たれているかというと、読点が文章を口に出すときの 息継ぎの印だからです。読点は文語文法の道具であるはずなのですが、 国語の授業で読点を息継ぎであると習った覚えが あるので、このような読点の使い方が口語文法として間違っているとは言い難いと思います。
→目的の駅まで、あと1時間弱はかかるはずだ。
jagarl% time drpl < kanon_t > kanon_t1 36.985u 0.195s 0:39.05 95.1% 15+2521k 32+16io 9pf+0w jagarl% time ./a.out < kanon_t > kanon_t3 3.392u 0.893s 0:04.38 97.7% 30+2200k 0+16io 0pf+0wということで、10倍程は速くなったみたい。
| 名前 | 桃 | Stella | 3D | total | CPU | Video | OS | Note |
| jagarl | 1710/42 | 739/29 | 2384/59 | 130 | Celeron 700MHz | SiS300(マザー組み込み) | Win98 |
% fetch http://www.yk.rim.or.jp/~tomoto/archives/drpl/drpl-1.04.tar.gz % tar xzf drpl-1.04.tar.gz % cd drpl-1.04 (drpl の #!/usr/local/bin/perl を #!/usr/bin/perlに変更) % ./drpl drpl -c dic/maruyaex.dic % mv ./drpl ./DIC* ~/bin % rehash % setenv DRPLDIC ~/bin (.cshrc でも設定)次に、xkanon に簡単なパッチ当て。実用的じゃないから本来は drpl を C にするなり なんなりすべきなんだけど。\ フロレアールよりKANONのが違和感があるのが面白いところ。